兼高かおる

【コラム 第2回】「兼高かおる」というスーパーレディ

【 第2回 】2年の予定が31年続く長寿番組に「兼高かおる世界の旅」

コラム_「兼高かおる」というスーパーレディ_レディ東京
♦︎世界を知らない日本、日本を知らない世界

1959年に始まった「兼高かおる世界の旅」は、当初2年の予定でした。それが31年も続くことになったのは、冒険心と好奇心で突撃取材する内容の面白さに加え、兼高かおるという人物の魅力が大きかったのではないでしょうか。彼女が取材した国は実に150カ国、移動距離は地球180周、月と地球を9回半往復するほどの距離でした。番組発足当時の国連加盟国は90カ国ほど、番組終了の1990年でも160カ国(2024年193カ国)ですから、本当に世界の隅々まで取材したと言っても過言ではないのです。海外旅行を夢見る一般の人々に代わって世界を飛び回る彼女は、文字通りお茶の間に海外を運んできてくれた黒船のような存在でした。番組は、取材してきた映像を見ながら兼高かおるとアナウンサーの芥川隆行が対話するスタイルで、2人のそのやり取りがまた面白かったのです。

1960年代当時は1ドル360円、海外の持ち出しは1日17ドルと制限がありました。海外渡航自由化の前であり、スマートフォンもパソコンもない時代ですから、本で読んだ知識を頼りにするしかありません。取材旅行に出かける前は、その国の資料を揃え地図を見て勉強する必要がありますし、現地へは必ず辞書を携帯します。そのため準備の時間も荷物も多くなるわけです。最初の取材旅行は110日間で15カ国を回るというものでした。今と違って現地にコーディネーターがいるわけでもなく、取材スタッフはカメラマンとその助手、そして兼高かおるの3人だけです。準備万端整えて行っても、いざ現地に入ると本の情報がまったくもって古い。間違っていることも多かったのです。そのため情報は地元の人と酒を酌み交わしながら収集したといいます。
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取材を重ねる度に思うのは、「日本は外国を知らなさ過ぎる」ということでした。そしてまた、「外国がいかに日本を知らないか」も思い知らされます。海外では、日本が地球のどこにあるかさえ知らない人が多かったのです。そのため「もっと日本人に世界を知らせたい、外国に日本のことを知ってほしい」という思いが募っていきました。そんな兼高かおるの情熱と尽きることのない好奇心は、次々と新しい場所の取材へと繋がり、テレビのこちら側の私たちを虜にし続けたのでした。

♦︎一般女性として初めて南極点へ到達
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美しく上品な外見や「山の手言葉」のイメージとは違って、兼高かおるは好奇心あふれる冒険家でした。数々の取材では、常人と思えないさまざまなチャレンジをしています。気球に乗ってアルプス越えをしたり、スカイダイビングに挑戦したり、ハワイの空をハングライダーで飛んだりと、生来のお転婆ぶりを遺憾なく発揮し、命懸けともいえるチャレンジをしました。それだけではなく、現地の食文化にも好奇心を掻き立てられ、普通の人なら聞いただけで怯んでしまうようなものも食べてみる、飲んでみる。でも、本当に危ないものは身体が教えてくれるようで、口に入れても飲み込むことができなかったそうです。お陰で長い年月で体調を崩したのは2度だけだったといいますから、動物的本能も強かったのでしょうね。ちなみに、一緒にいた人はそれを食べてしまって3日間寝込んだそうですよ。

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兼高かおるは、初めて南極点に到達した一般女性のうちの1人です。1969年にアメリカ大使館に申請して許可を得たのですが、当時女性に南極渡航の許可は出ておらず、名前の「かおる」を男性と勘違いされていたとしてキャンセルに。ようやく許可が下りたのは1971年、43歳の時でした。ついに南極点に到達したとき、同行していた南米の女性たちと「どちらが1番とかはなしにしよう」と話し合い、「1、2の3」で南極点に立てられているポールにタッチしたそうです。競争より調和を大切にする女性らしいエピソードですね。

最後に、冒険心とチャレンジ精神の人だった兼高かおるの好きな言葉を紹介します。
「成せばなる 成さねばならぬ何事も ならぬは人の成さぬなりけり」
(江戸時代米澤藩主 上杉鷹山)

(つづく)

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更新日:2024年5月8日(水)