兼高かおる

【コラム 第5回】「兼高かおる」というスーパーレディ

【 第5回 】兼高かおるが旅から学んだこと

コラム_「兼高かおる」というスーパーレディ_レディ東京

♦︎「人生三分割」という哲学と大転機を迎えた2つの大きな運

旅は人生そのものといわれます。時代とともに国も人も絶え間なく変わっていく世界の中で、兼高さんの旅はまるでエンドレスの映画を観ているようだったといいます。
「兼高かおる世界の旅」は、1959年から1990年までの31年間にわたる長寿番組でした。その間、1年の半分を海外で過ごし、現地での取材、コーディネート、プロデューサー兼ディレクター、ナレーターと一人何役も務めていた彼女は、人生の大半をこの番組に捧げていました。まるで泳ぐことをやめたら死んでしまう回遊魚のように世界中を飛び回っていたのです。

兼高さんには「人生三分割」という哲学がありました。つまり、最初の3分の1は後で世の中の役に立つようなことを習う時期、次の3分の1は世のため、人のために尽くす時期、残りの3分の1は自分で好きなように使う時期。そのどれが欠けても、この世に送り込まれた理由、価値がないという考えでした。さらに、人生には2度、大転機につながる大きな運があるとも語っています。それはちょうど三分割の切り替わりの時期に訪れていたように思われます。

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♦︎第1の運はアメリカ留学

兼高さんが10代を過ごしたのは規制の多い時代。女学校は締め付けが厳しく、おとなしくて従順な生徒以外は「悪い生徒」「不良」とレッテルを貼られてしまう、居心地の悪い場所でした。終戦後、世の中はガラリと変わり、それまでのモラルも大きく変化しました。そんな中、1954年に兼高さんはロスアンジェルス市立大学に入学しました。これが第1の運の始まりでした。
自由で前向きなアメリカで水を得た魚の心境で学生生活を謳歌します。女学校では先生に睨まれる存在だった彼女が、生まれて初めて先生から贔屓されるという経験もします。周りがみんな親切で、生き生きと勉強に励みました。あるとき招かれた南カリフォルニア大学の教授宅では、食事中の話題が天文学からギリシャ神話まで多岐にわたっていて、食後にはクラシックのアンサンブルの演奏をするという、そこにいた人たちの教養の広さ、豊かさに驚かされます。話題についていけないばかりか、自国のことすらほとんど知らない自分に愕然とし、もっと日本の文化について学ばなければいけないと反省します。そして夏休みも休まず講義をとるようなハードな生活を続けた結果、ついに身体を壊し、卒業を前に帰国を余儀なくされたのです。しかし、これが運命の分かれ道でした。

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♦︎「日本に帰る運命」が招いた第2の運

運命というのは偶然のように見えて、実は仕組まれているのかもしれません。物事が思い通り、計画通りに運ばなかったとき、兼高さんは「これも人生の休み時間」とありがたく受け止めるタイプでした。そのため、道半ばで帰国したことを悔やむことなく、英語を忘れないため、日本を訪れた外国人にインタビューする仕事を始めます。これがジャーナリストとしての第一歩になり、後の「兼高かおる世界の旅」へと繋がっていくことになります。「去る者は追わず、来る者は選べ」というのは兼高さんの言葉ですが、物事に執着せず、動物的勘を働かせ、来たものをチョイスするというのがチャンスを掴む秘訣なのかもしれません。大きなことを成し遂げる人たちにはその才能があるような気がします。

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♦︎そして「人生三分割」の最終章へ

31年続いた「兼高かおる世界の旅」は突然終わりを告げました。さまざまな常識や尺度をもつ国々を訪ね歩き、限られた日程で取材・撮影するためには臨機応変、柔軟な発想や行動力が求められました。海外では常に現場のリーダーとして判断を下さなくてはならない兼高さんは、自分でも気づかないうちに顔つきやしゃべり方が厳しくなっていました。子どもの頃から知っているおじさまにそのことを指摘され、還暦を迎えた母親からは「60歳になっても娘と座って話す時間もない」と嘆かれます。
そんな日々を送りながら31年という時が流れました。これほどの長寿番組になっていくと、初期の頃からバックアップしてくれた人たちが次々と亡くなっていきます。気落ちした兼高さんは、2年ほどお休みしたいと思うようになり、「中休みをさせてください」と言うつもりで「中止させてください」と言ってしまいました。ちょっとした言葉の行き違いだったのですが、ちょうど世の中の景気悪化の兆しが出てきた時期とも重なり、番組の中止が決まりました。兼高さんはこの失言もまた運命と捉え、いい潮時だったと受け取ります。人生三分割。ようやく自分で好きなように時間を使える最終章に到達したのでした。1990年、兼高さん62歳のことでした。
(つづく)

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更新日:2024年8月7日(水)