【 第1回 】テレビ黎明期に世界をお茶の間に運んだ兼高かおるを知っていますか?
♦︎はじめに
兼高かおるは1959年にTBSテレビで“最初の海外取材番組”を始めた旅行ジャーナリストです。海外の文化・習慣・風土・自然・人々・動物・食べ物などをテレビを通して紹介し、未知なる世界への扉を開いたパイオニアです。日本人にとって海外がまだまだ遠かった時代、日曜日の朝に放送されていた「兼高かおる世界の旅」は、家族で観る大人気番組となり31年間も続きました。また、生涯独身だった兼高かおるは2014年、医師や医療従事者を志す若者に奨学金を支援するために「一般財団法人 兼高かおる基金」を設立しました。これは、彼女自身が医師になりたかったからであり、基金は2022年に福島県立医科大学と医学生への奨学金を締結しています。
WEBレディ東京では、2019年に90歳でこの世を去った兼高かおるさんの足跡を追い、彼女の冒険の旅や豊かな世界観に触れながら、「スーパーレディ兼高かおる」の魅力を全6回にわたって掲載します。「兼高かおる」の名を知る人も知らない人も、かつてこんなカッコいい日本人女性がいたということを知っていただければ幸いです。
♦︎お転婆な文学少女、世界へ
兼高かおる(本名兼高ローズ)は1928年2月29日、神戸で生まれました。幼少時代からお転婆で好奇心・独立心が旺盛。また世界の童話全集を読み漁る文学少女でもありました。童話を通じて知る外国に興味を掻き立てられ、夢中になって読書した少女かおるが特にお気に入りだったのは『アラジンと魔法のランプ』。ランプや指輪の魔人の登場にワクワクと心躍らせる少女の姿が目に浮かびますね。
青春時代に学んだのは東京の香蘭女学校でした。自由な気質の母のもとでのびのびと育った彼女は、女学校には馴染めなかったようですが、6年後輩の黒柳徹子さんによれば「大変美しい方で、(女学校の後輩の)私たちにとっての大スター」だったそうです。利発な彼女は大好きな兄の友人たちに混ざって話を聞くのが好きで、その中には三島由紀夫もいたといいますから、恵まれた環境だったのですね。夏は軽井沢や箱根で過ごし、それがホテル業の関心へと繋がります。
26歳の時、ホテル業を学ぶためアメリカのロスアンジェルス市立大学に入学。水を得た魚のように勉学に励みます。28歳で帰国後は、得意な英語を活かして『ジャパンタイムス』などでフリーライターとして活躍、これがジャーナリストとしてのスタートとなりました。1958年、兼高かおるは世界早回り一周中のアメリカ人ジョゼフ・カボリーに東京都知事の名代として人形を渡す機会を得ます。これがきっかけで世界早回りに興味を持った彼女は、スカンジナビア航空が北極を超えて東京〜コペンハーゲンの航路を新設したことを知り、それを利用すればカボリー氏の記録(89時間18分37秒)を上回る記録が可能になると出版社に企画を持ち込みます。そして30歳の時、スカンジナビア航空で世界一周早周りに挑戦。見事、それまでの記録を一気に16時間も縮める73時間9分35秒で世界一周を成し遂げたのです。
♦︎「兼高かおる世界の旅」誕生
1959年、留学経験について綴った処女作『世界とびある記』を刊行しました。また、世界一周早周りの紀行文を週刊誌に掲載します。それがラジオ東京(TBS)の目に留まり、海外をよく知る著名人にインタビューする番組の仕事が舞い込みました。取材の中で岡本太郎からフランスの話を聞いたり、土方久功からパラオの離島の話を聞いたりするにつれ、彼女の中には自分の目で直接見たいという気持ちが膨らんでいきます。そんな中、好評を博したこの番組が、ラジオからテレビ番組へと移行することに。時はTBSテレビ放送開始4年目というテレビの黎明期。兼高かおる31歳のことでした。こうして、ついに日本で初めての海外取材番組「世界とびある記」がスタートしました。海外取材の経験を持つ人などなく、現地のコーディネーターなどいない時代に手探りで始まった「世界とびある記」は、翌年「兼高かおる世界の旅」に改題し、31年間続く大人気番組となっていったのです。(つづく)
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更新日:2024年4月3日(水)